韓国言論史: 国史編纂委員会に解放空間期の「自由新聞」が。

朝鮮半島近現代史において「解放空間」と呼ばれる、日本敗戦の1945年8月15日から大韓民国朝鮮民主主義人民共和国樹立の1948年8〜9月頃までの時期は、なかなか興味深いものがあります。この期間は日本が遺していった各種インフラが現地の人々の手に引き継がれていく過渡期であり、多数の新聞や雑誌、単行本が雨後の筍のごとく溢れた時期でもあります。1945〜6年頃の新聞記事を読むと、現在の韓国式に改められる前の日本時代の地名*1や施設名・企業名はもちろん、漢字交じりハングルで書かれた記事の端々にも色濃く残る日本語や日本式表現の影響、そしてそれが徐々に排除されていく過程を追うのも面白いです。
この時期の新聞で、ネット上で読めるものとしては「東亜日報」解放後復刊の1945年12月1日付け以降が最古だったのですが、同紙が1962年分までアーカイブされている「国史編纂委員会」のサイトを久々に覗いてみると、1945年10月の創刊号から1947年5月までの「自由新聞」が新たに追加されているのに気付きました。
自由新聞 (The Korean Free Press) は1945年10月5日の創刊で、8・15を前後してハングルの新聞として唯一無休刊で発行された旧朝鮮総督府機関紙「毎日新報」*2 や、ソウルにおける解放後初の新規日刊紙といわれる9月8日創刊の左派系紙「朝鮮人民報」などと並び、解放空間の初期に氾濫した玉石混交の新聞の中では有力なもののひとつで、スタンスは左翼寄りとされていますが、今回ザッと読んでみた限りでは「中道左派」という印象を持ちました。同紙は朝鮮戦争中の1952年に責任者が北朝鮮側に連れ去られたことで休刊となった後、約1年のブランクを経て日本統治時代から続いた繊維財閥の泰昌紡織(日本でも著名だったビデオアーティストの故ナム・ジュン・パイクこと白南準氏の実家で、当時の社長は同氏の兄)が引き継ぎ、同社が事実上倒産した1961年に廃刊となったそうです。
同時期の東亜日報等と同様、用紙不足からタブロイド版2ページが基本(新年号、8月15日付、臨時政府関係者帰国時などは増ページあり)だったようですが、印刷は東亜等と比べてもまともに見え、営業力があったのか広告が多いのも目を惹きます。
8・15以降の休業を経て、10月以降朝鮮人従業員によって相次いで再開された「丁子屋」*3 や「韓一百貨店」と改名した旧「三中井」*4 といった百貨店、それに旧京城三越(現・新世界百貨店本店本館)や丁子屋の店内で営業していたダンスホール明治製菓京城売店(今の明洞にあった)だった建物で営業していたレストランやキャバレーの広告なんかも。あと朝鮮式料亭の新規開業(日本式料亭の跡地で営業したところも)の広告もやたらに多いですね。その一方で、そうした遊興ブームを戒める風刺画が載っていたりとか。
中国にあった大韓民国臨時政府関係者の帰国時には、増ページして特集を組んでいたりもします。臨時政府への期待、主席だった金九氏の人気が高かったことがうかがえます。
これらの記事や広告が出たのは東亜の復刊前、つまり今までネット上では読めなかった時期のことです。

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解放空間期の新聞としては、個人的には最大部数を誇ったという「朝鮮人民報」を通しで読んでみたいところです(部分的ながら影印本も存在するようです)。この新聞は日本統治時代の日本語紙で、かつ朝鮮総督府機関紙だった「京城日報」の左派系朝鮮人元記者有志を中心に、同紙の印刷施設を用いて創刊され、1946年9月に米軍政の左翼弾圧により強制廃刊となるまで、左派支持者の多かった解放空間のソウルで最も人気の高かった新聞と伝えられています。記事内容はネット上では断片的に拾うことしかできませんが、共産党機関紙的なプロパガンダは少なく、一見した印象では事実報道が中心の普通の新聞だったようで、広告も普通に載っていたようです(資本論レーニンスターリン全集といった左翼系出版物の広告が多かったようですが、映画・演劇や商店など普通の広告も)。
ちなみに1950年6月25日に起きた朝鮮戦争でソウルが北朝鮮軍に統治されていた同年7月から9月にかけ(「敵治下」とか「共産治下」と呼ばれる時期)、この「朝鮮人民報」と、やはり解放空間初期の左翼紙だった「解放日報」の2紙が、かつての題号をそのまま流用して発行されていたそうです。内容は当時の韓国紙のスタンダードだった漢字交じりハングルであることを除き、平壌発行の機関紙「労働新聞」や「民主朝鮮」(いずれも当時既に漢字を廃止済み、ただし今と違って縦書きで、日本の新聞や1990年代までの韓国紙に似た体裁でした)と大差なくプロパガンダが記事の大半を占めていたようですが、動乱中に散発的に発生した米軍や韓国軍による一般市民の虐殺事件、中でも1994年までその存在が事実上隠蔽されてきた「老斤里事件」に関して当時唯一報道したのが、この北朝鮮統治下の「朝鮮人民報」だったりもします。

*1:京城府」が「ソウル市」、「町」が「洞」、「通」が「路」、「丁目」が「街」に改称されたのは正式には1946年10月だが、新聞の発行所や広告内の住所表記にはそれ以前から「京城」を「ソウル」や1910年以前の呼称「漢城」と表記している例もある

*2:8・15後は左派系記者中心の自治委員会により発行、11月に米軍政による発禁処分後、約2週間の休刊を経て23日付より「ソウル新聞」に改題し復刊

*3:後に「美都波」などを経て、現在はロッテ百貨店本店別館

*4:後に米軍向け売店や「援護庁」庁舎を経て1967年に解体撤去